現代に繋がる『稲むらの火』と『エルトゥールル号遭難事件』の教訓
 (2025年5月24日・25日失敗学会春合宿に参加して)
2025年5月28日
失敗学会分科会:岡田敏明
1、『稲むらの火』と濱口梧陵
 小学生から中学生にかけて『世界偉人伝』『日本の偉人伝』を夢中になって読んだ記憶がある。エジソン・ナイチンゲール・ワシントンや野口英世・緒方洪庵などである。今になれば、ある程度は納得できるのではあるが、子供心にも物足りなさや違和感を覚えていた。エジソンは自ら立ち上げたGE(ゼネラル・エレクトリック)を経営者としては不向きで追われたこと、ナイチンゲールは看護師として活躍したのは非常に短く、むしろ看護の環境改善に尽力したこと(後に看護覚え書きを著す)が今の看護に繋がっている。野口英世は浪費癖があり、借金で友人知人に迷惑をかけたことなど、偉人も人間くさい一面があり、一方でその功績や後の世の中に与えた影響などを知るにつけやっと偉人と言われる人物が理解できた。
 思うに子供の時読んだ偉人伝は大人になってからその事跡訪ねる、評伝・人物伝を読み解く入り口であったと改めて得心した。
 さて、濱口梧陵のことである。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著作『 A Living God(生ける神)』が余りにも有名だが、ハーンは現地に赴くことなく伝聞での著作であり、中井常蔵の昭和12年作品「燃ゆる稲むら」(「津波美談」国語教科書に「稲むらの火」)が実際の史実に近いと言われている。

 今回も含め4度目の湯浅及び濱口梧陵稲むらの火の館訪問でした。過去のいくつかの疑問(稲むらとは?復興のための財力?その後の梧陵等々)のいくつかがやっと結びつきました。濱口梧陵が地震とその後の津波で見せた素早い対応には多くの教訓が含まれていました。
 繰り返す津波の被災者の誘導のため稲むらに火をつけたこと。倉米を供出しすぐさま食の準備をし、家を失った者に簡易住宅を用意し、がれきの処理に堤防工事を利用し、その堤防工事で被災者の職を作るなど、先年の能登の地震対策の稚拙な対応を見るにつけ、歴史の教訓・偉人から学ぶことの大切さと難しさを改めて実感した。   ここまでは、ある程度濱口梧陵についての事跡をして知ってはいたが 以前に若きときから、佐久間象山や勝海舟との関係や渋沢栄一との交友、そうした縁から陽明学を信奉した。陽明学は「知って行わないのは、未だ知らないことと同じである」とし、「真に知るということは必ず実行を伴うもので、知と行とは表裏一体で別物ではない」(知行合一)とする。濱口梧陵は生涯において陽明学を実践した生涯と言える。後に駅逓頭(後の郵政大臣に相当)や、初代和歌山県議会議長を務めた。

2,『エルトゥールル号遭難事件』からの歴史の邂逅
 2015年製作の日本・トルコ友好125年記念映画(映画海難1890)
をみて、一度はその映画の舞台の一つである遭難現場に是非に行きたいとの思っていた。以前にノンフィクション:『日本遙かなり』「エルトゥールルの「奇跡」と「邦人救出の迷走」 門田隆将/著読んだこともあった。
 1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件(1890年9月16日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖において折からの台風に遭遇、猛烈な波浪と強風のために航行の自由を失い樫野崎に寄せられ、甲羅岩礁に激突。船体破損部から流入した海水が機関の爆発を引き起こし、オスマン海軍少将以下587名が殉職、生存者わずかに69名という大海難事故、大島村民が台風下に救援活動にあたった。)と、「邦人救出の迷走」イラン・イラク戦争(1980年開戦、1988年停戦)の最中の1985年に、テヘランに取り残された日本人の救援のため、日本政府の迷走の末、トルコ政府が救援機を飛ばして救出した出来事の顛末を描いていた。
 遙かなる異国で遭難したトルコのエルトゥールル号の乗組員たち、テヘランに取り残された日本人も救援に無策の日本政府に対して『遙かなる日本』を実感したに違いない。当時の商社の駐在員がトルコの首相との個人的な縁から救援機を日本人に振り分け、自国民は危険な陸路で脱出させた史実による。『エルトゥールル号』での恩を今こそ返そうが合い言葉だったという。台風の中を大破した船から生き延びた船員が60メートルの崖を這い上がって助けを求めた。やはり現場で実感すること、それが暴風下の中での遭難と救援を想像することで実感できた。カエサル風に言うと、(本を)読んだ、(映画を)見た、(現地で)実感!!と言ったところか。(笑)

 ところで、トルコ(エルトゥールル号)記念館公園の一角に巨大なムスタファ・ケマル・アタテュルクの銅像が建っている。トルコ共和国の初代大統領で一夫多妻禁止や女性参政権導入、スルタン制・カリフ制廃止などトルコの近代化を推進した。「アタテュルク」は「父なるトルコ人」を意味する称号だと言う。エルトゥールル号での義援金を直接トルコまで赴いた山田寅次郎はやがてトルコの士官学校で日本語教育(日本人及び日本の紹介)を通じて教え子としてムスタファ・ケマル・アタテュルクとであう。明治の快男児と言われる山田寅次郎は長く日本とトルコの交流に尽くした人物。

3、現代に繋がる『稲むらの火』と『エルトゥールル号遭難事件』の教訓
 これまで日本各地に天災や大事故、大事件の慰霊碑、偉人の顕彰碑など、少しでも時間を見つけて立ち寄ることにしている。しかしその多くが、事跡が読みずらかったり、近くの古老に尋ねても要領を得ないことが多くなってきたように感じる。今は、ネットで調べればある程度のことは即座にわかるが、何か現実感がなく、ましてやそのことから何を教訓として学び、どう次の世代に伝えていくのか?『稲むらの火』の館(有田町広川)と『エルトゥールル号遭難事件』現場とトルコとの友好記念館(串本市大島)の訪問でその答えを見つけたと実感した。大地震と大津波は日本の歴史の中、過去何度も繰り返し襲ってきた。同じように『エルトゥールル号遭難』の原因となった台風も毎年のように日本を襲っている。今や、天災は忘れる前に、つまり人々の記憶が薄れる前にやってきている。日本列島のどこに住んでいてもほとんど例外なく天災に見舞われているのではないか?二つの記念館を訪れて実感したのは、その災難に遭っても、共に立ち向かった人たちの姿であり、指導者であり、その後の人々がその教訓を伝えようとした姿だった。一方で、指導的役割を果たすべき人々がその歴史を知らず、先人の事跡を知らないまま危機に際して思考停止なり、責任逃れをしている姿が多くみられるようになった。今回の訪問を機会に今一度今後自らどうしていくべきかを考え実行していきたい。